第14章 数・タイミング・ノックアウト
https://gyazo.com/2f7d45fa32f40e58d8b72e4497bfd4ab
https://amzn.to/2Zx0fXP
あるパーツの役割を知るには?
あるタンパク質が、生命現象においてどのような役割を果たしているかを知るための最も直接的な方法は、そのタンパク質が存在しない状態を作り出し、そのとき生命にどのような不都合が起こるかを調べればよい
GP2がなければ、細胞膜は、分泌顆粒を形成することなど絶対にできないはうである
マウスのような実験動物でこのような状態を作り出し、その膵臓を顕微鏡で見ればそれは明らかだ
設計図を破壊する
タンパク質がテレビのダイオードやトランジスタと異なる最も大きな点は、同一のタンパク質が、分子の数にすると、何万、何億も散らばってるということ
ならば設計図を破壊する
この試みは、生物学の歴史上、まず大腸菌や酵母のような単細胞生物に対して行われた
大腸菌には、設計図としてのゲノムDNAはひとつしかない
ある大腸菌のゲノムから特定のタンパク質データを消去することができれば、細胞分裂によってその大腸菌ゲノムを受け継ぐ子孫の大腸菌はすべて、そのタンパク質を生産できなくなる
実際、自然はすでにそのような実験をランダムな形で行っている
突然変異
大腸菌はシャーレの上で何十万匹(正確に言えば何十万コロニー)をも同時に生育させることができるので、きわめてわずかな確率でしか起きない複製ミスであっても、大きな数の対照をスクリーニングすることができ、この中から突然変異体を選抜することができる
こうして多数の興味深い突然変異が発見され、遺伝子上のミスとタンパク質の機能の欠損、そしてその欠損がもたらす異常との関係が対応づけられるようになっていった
やがて研究者たちは、より人為的に、より高確率に行う方法を編みだすようになっていった
化学物質でDNA複製の邪魔をしたり、放射線を照射してDNAに損傷を与えるなど
ノックアウト実験
遺伝子を人為的に破壊してその波及効果を調べる方法
私たちが行おうとしたのはまさにGP2ノックアウト実験
それもマウスのような多細胞生物に対して
GP2は高等動物で機能しているタンパク質
ノックアウト実験の障壁
ノックアウト実験を多細胞生物に対して適用するには大きな技術的障壁が立ちはだかっていた
多細胞生物にはひとつひとつの細胞にひとつずつゲノムがある
だから全身から、あるタンパク質の存在を消すためには、すべての細胞のすべてのゲノムに対してデータ消去を施さなくてはならない
受精卵に遡るしかない
ここでも自然が行った偶然の実験例がある
遺伝性の先天性欠損疾患
単細胞生物の場合、ノックアウトする実験が実現できるのは、それが意図的、自由自在に行えるからではなく、「数」がこなせるから
高等動物の受精卵ではこのようなことはできない
そしてもうひとつの要素は、受精卵は決して実験者のために"立ち止まってはくれない"ということ
受精卵がシャーレの上で生育できるのは受精直後のほんのわずかな時期だけであり、このあとは母胎環境でのみ正常な細胞分裂と分化が進行する
受精した瞬間、発生と分化の時計は時を刻み始め、ここで無理に実験的な介入を行えば、受精卵は発生を止める
つまり単細胞生物に対して行えたような操作の余地といったことが成り立つタイミングが存在し得ない
数とタイミングの問題
129系マウス
ジャクソン研究所は世界で最も優れたマウスの研究拠点
純系マウス、ミュータントマウス、疾患モデルマウスなどが次々と開発され、その卓越した維持管理と供与システムによって、世界中の生物学と基礎医学研究に多大なる貢献を果たしてきた
1953年、ジャクソン研究所の若い研究員リロイ・スティーブンスは、研究所に飼われている無数のマウスの中に不思議な異常があることに気がついた
そのマウスには129系統という名前が振られていた
睾丸にできた腫瘍はあらゆるタイプの細胞のごたまぜ状態を呈していた
毛が生えていた
筋肉細胞や神経細胞が混じっていることもあった
あるいは心臓のように拍動している細胞が発見されることもあった
さらには小さな歯が生えていることさえあった
本来睾丸の一部に分化するはずの「幹細胞」が、自ら進むべきルートを見失って、なりえるあらゆるものに成り果てたものに違いない
スティーブンス自身は「幹細胞」という言葉ではなく、この時点では、まだ始原細胞という言葉を使っていた
しかし彼の洞察は正鵠を射ていた
129系マウスの分化プログラム時計には、数とタイミングに関する"ずれ"が内包されていた
ES細胞とは何か
1980年初め、ケンブリッジ大学のマーティン・エバンスの研究室、そして彼の一番弟子だったゲイル・マーティンのカリフォルニア大学の研究室で、ほぼ同時に、リロイ・スティーブンスの129系マウスの胚から幹細胞を取り出すことに成功した
129系マウスには、スティーブンスが発見したような奇妙な腫瘍をもたらす細胞だけでなく、あらゆる場所に、立ち止まって、何者かになるタイミングを待っている細胞が多数存在していた
これが胚性幹細胞(embryonic stem cefll, ES細胞)樹立の瞬間
このES細胞は、数とタイミングに関して、本来、生命のプログラムが持っている、時間軸に対する待ったなしの一方向性から免れた稀有の性質を有していた
ES細胞をもともとの胚から切り離して、シャーレの上で栄養を与えて育ててやると分化プログラムが停止する
しかし細胞分裂は止まらない
無個性のまま無限に増殖することができる
つまり、タイミングが止まったまま数だけが増える
そして驚くべきことに、増えたES細胞を、別に作ったマウスの胚の中に細いピペットで流し込んでやると、ES細胞はそのマウスの胚の細胞群とうまく折り合いをつけて胚の一部となり変わり、分化のプログラムを再開させて、やがてまったく健康な一匹のマウスとなる
つまりES細胞は、腫瘍のような混沌をもたらすのではなく、秩序だったふるまいをする正常な始原細胞なのである
このとき、マウスの身体のある部分はES細胞由来の、そしてまた別の部分はES細胞を受け入れた胚由来の細胞から形成されていることになる
つまりES細胞は、あらゆる細胞に分化するポテンシャルをその内部に秘めていることになる
ただしES細胞は分化能を有するが、受精卵が有するような全能性を有しているわけではない
完全な一個体ができることはない
このからくりが高等多細胞生物の遺伝子ノックアウトを可能とした
非常に稀な確率ながら、ES細胞の内部のゲノム上で、GP2をコードする遺伝子を意図的に欠損させたものを作り出すことができる
100万分の1程度
手間と根気さえあれば、100万個のES細胞の中からスクリーニングによって選別することができる
GP2ノックアウトマウス誕生
このようにして私たちは、数とタイミングに関する多細胞生物の分化の掟を免れて、GP2遺伝子が破壊されたES細胞を作り出し、選抜することに成功した
十分な数を増殖させ、その半数を冷凍保存した
一方で、私たちはマウスを妊娠させ、そこから胚を採取してきた
この胚にES細胞を入れる時期が受容となる
フリーズさせていた分化のプログラムを再開させるタイミングがここではクリティカルとなる
受精卵は次々と細胞分裂を繰り返し胚を形作っていく
受精5日ほどで胚盤胞と呼ばれる中空のボール状の細胞群塊となる
このとききわめて細いガラスピペットを使って、ES細胞を中空の胚内部に導入する
こうしてできた胚盤胞を、あらかじめ擬似妊娠状態にしておいた代理母マウスの子宮に入れて、対峙が育っていくのを見守る
すべてのステップに最高度の熟練と実験設備が要求される
実際、各ステップごとに七桁規模の研究費が費やされていった
代理母マウスから生まれた子どもの毛並みに黒地に褐色の"ぶち"模様を呈している
一つの個体として統合されているものの、ES細胞と胚盤胞由来の混在から成り立っている
ES細胞は129系マウスに由来し、129系マウスの毛色は薄いブラウンである
胚盤胞はわざと129系とは毛色の異なる、たとえば黒色のマウスのものが用いられる
するとこの二系統が合一してできた子マウスはあらゆる部分で、両者がモザイクを呈することになり、毛色はその端的な指標となる
このようなマウスをキメラと呼ぶ
しかし重要なのはここから先
私たちはGP2が、部分的な細胞からではなく、"全身の細胞から"失われたマウスを作出し、その影響を見たいのである
全身の細胞が、ES細胞に由来する完全なノックアウトマウスを得なくてはならない
そのためには、キメラマウスの精子もしくは卵子の細胞がES細胞由来となる偶然を祈るしかない
胚盤胞の内部に注ぎ込まれたES細胞が、個体になったときどの部分に行き、どの程度のモザイクを作り出すかは、全くの偶然にたよるしかない
私たちは、ES細胞を宿した複数の胚盤胞を作り、できるだけたくさんの子マウスを誕生させた
幸運を得るには数を稼ぐしかない
こうしてできたキメラマウスを妊娠させて次の世代の子どもを作る
運良くES細胞由来の精子と卵子が受精したとき、完全なノックアウトマウスが生まれる
すべての細胞が129系のES細胞に由来するため、そのマウスの毛は、129系と同じブラウン一色となる
とうとうGP2ノックアウトマウスが生まれてきた
このマウスはそのすべての細胞がES細胞由来であり、すべての細胞でGP2を作り出すことができない
とはいえ、GP2ノックアウトマウスは一見、なんの変哲もないごく普通のマウスに見えた
顕微鏡下のGP2ノックアウトマウスの細胞はあらゆる意味で、全く正常そのものだった
→第15章 時間という名の解けない折り紙